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×0155 『黄泉びと知らず』 梶尾真治
△0154 『笑う山崎』 花村萬月
△0153 『リセット』 北村薫
△0152 『文房具を買いに』 片岡義男
△0151 『空飛ぶ馬』 北村薫

×0155 『黄泉びと知らず』 >梶尾真治/新潮文庫/2003.08.30

 『黄泉がえり』のサイドストーリーということで注目して買ったのだが、8つの短編のうち、『黄泉がえり』に関連するのは1編のみ。他は全く関係のないSF物だった。SFが嫌いなわけではないのだが、あまりにもつまらないものが多かった。『六番目の貴公子』や『魅の谷』など全く笑えなかった。『黄泉がえり』のヒットに便乗し、読者を騙しているとさえ思ってしまった。

 『奇跡の乗客たち』はまずまず。崖崩れに巻き込まれたバスに居合わせたのは、重傷の老人、腕に怪我を負った医者、そしてさすらいの料理人である。料理人の包丁さばきをたよりに、医者のアドバイスによって料理人が手術をするというもの。そこそこのシチュエーションコメディであった。

 『接続された女』が一番面白かった。滅亡後の地球に、異星人が探索に来て、そこに残された女性の意志を感じ取るというもの。異星人の描き方と、女性の意志のはかなさが、いいコントラストになっている。

 表題作の『黄泉びと知らず』はさすがである。作者のあとがきでは、「黄泉がえった死刑囚の話」「ペットに黄泉がえらせてもらった飼主の話」「誰も自分を黄泉がえらせてくれないだろうなと思い悩む男の話」などが構想にあったそうだが、こちらの方がずっと面白そうである。一つのネタで、何作も書くのはルール違反かもしれないが、なかなか面白い設定なので、自作に期待したい。

>2003.08.30.SAT


△0154 『笑う山崎』 >花村萬月/祥伝社/2003.08.27

 まず、主人公・山崎の特異なキャラクターの造詣が面白かった。ヤクザなのに刺青もせず、むしろ親から貰った身体を大切にしたいとのたまう。また、色白で華奢だが、その無表情の顔には冷酷さが漂う。味方にすれば心強いが、決して敵にはしたくない男である。妻のマリー、娘のパトリシアを溺愛する一方で、自分や自分の仲間を傷つけたりする相手には容赦なく牙をむく。ヤクザらしくないくせに、どのヤクザからも恐れられる男。それが山崎である。

 しかし、山崎の人物描写やストーリー展開に魅かれながらも、その残酷なリンチのシーンなどはちょっといただけないと思った。私はミステリーが好きなわりには、暴力に対して抵抗がある。ハードボイルドがあまり好きではないのもこの辺りに理由があるのだろう。半田ごてで少しずつ身体に穴を開けながら嬲り殺しにするシーンなど、思わず眉をしかめてしまった。暴力シーンが残酷なだけに、時々チラリと見せる山崎の優しさが、素晴らしいものに思えたりするのだが、その直後に、また人を殺したりするので、アップダウンが激しい。まるでジェットコースターに乗っているような気分にさせられた小説であった。

>2003.08.27.WED


△0153 『リセット』 >北村薫/新潮文庫/2003.08.26

 まずは言い訳から。本書はいわゆる「時の三部作」の1つであり、『ターン』『スキップ』と比べても、本書が一番面白かった。なのに、なぜ△か? 私の中の○は、時間を忘れさせてしまうほど、熱中して読んでしまう本のことである。ついつい夜更かししてしまったり、電車を乗り過ごしてしまったり、トイレから出られなくなったりする本のことである。かなりハードルが高いせいで、あと一歩で○なのに、という△が並んでしまう。○と△の間に、□でも作ればいいのだろうが、せっかくのシンプルな評価なので、しばらくはこのままで行きたい。ちなみに◎は、時間をかけなくては読めない作品が多い。一行一行溜息をつきながら読むような本であり、感動が深く、後々にまで身体の芯に残る作品に、◎を付けている。というワケで、「限りなく○に近い△」の本書である。

 出だしから戸惑ってしまった。どうも「ですます調」の小説は苦手である。しかも、戦時中の話で、なんだがずっとこの調子で暗い話なのかと読み進めた。第二部で舞台が変わる。ある少女の父親の日記を元に話は展開していく。このシチュエーションを理解するのに少し時間がかかってしまった。慣れてくると、父親の少年時代の日記と現在の独白とが交互に絡み合っているものだと理解できる。そして、4分の3ほど読み進めた頃、感動がじわじわとやってくる。それまでは、『リセット』という題名にひきづられて、人生をやり直すような話、つまり、過去にタイムスリップする『スキップ』の逆バージョンのものを想像していた。☆期待はいい意味で裏切られ、しかもラストは暗転かと思いきやのハッピーエンドで非常に心安らかに読み進めることが出来た。巻末の対談で宮部みゆきが言っている通り、時の三部作の中で唯一のハッピーエンドなのである。

 作者自身も語っているが、33年に一度の獅子座流星群がいい味を出している。時の流れを感じさせる、素敵な小物。また、本筋とは全然関係ないかもしれないが、文中の「寒さも暑さも、その他いろいろなことも、昔は、まず我慢するのが当たり前だった。だからこそ、ごく普通の、四季折々の生活の中に、きらりきらりと光る喜びがあったね」というセリフに魅かれてしまった。そうなのだ。我慢した中の喜びというのはひときわ大きいのである。我慢しないことが幸せだと思い込み、本当の幸せを見過ごしているのかもしれないと思わせてくれた言葉であった。

>2003.08.26.TUE


△0152 『文房具を買いに』 >片岡義男/東京書籍/2003.08.25

 帰りに立ち寄った本屋で、ふと目にして衝動買いしてしまった。私も結構な文房具フリークである。パラパラとめくると色鮮やかな文房具たちの写真が並べられており、まるで絵本のよう。実際、半分が文章、半分が写真という構成になっている。作者はこの本を作る為にも文房具を買い集めたそうだが、その熱意は本の為だけではない。もともと文房具が大好きで、だからこそ本にしようと考えたに違いない。そんな作者の意気込みが伝わってくる作品である。

 取り上げている文房具は、ほとんどが外国製のもの。そのせいか、撮影も海外で行われたかのような錯覚を起こしてしまうが、ほとんどが自宅(日本)で撮影したもののようである。思い込みとは恐ろしい。本書は実のところ、文房具に関するエッセイのようなもの。鉛筆に、ノートに、消しゴムにとそれぞれに対して自分の思いを書き連ねている。文房具を見つめる、温かいながらも鋭い視線が面白い。少し抜粋してみよう。

 手帳について:なにも書き込まれていないぺージをこうして眺めていると、なにごとにせよ手帳に書きとめるとはどういうことなのか、その核心が見えてくる。のちのちのために、いまここで、いろんなことを手帳に書くのだ。書いただけではほとんど意味はない。必要に応じて、あるいは必要がなくても折にふれて、あちこちのぺージを開いては、自分が書き込んだ事柄を読んでいく。ただ読むだけでは、これも意味がない。手帳のなかにばらばらに書き込まれていることを頭のなかに拾い集め、ひとつにまとめて練り合わせ、おたがいのあいだに化学反応を引き起こさせ、その結果としてそこに浮かび上がる結晶のようなものを、手帳の産物として手に入れなくてはいけない。のちのちのためにとは、過去の体験から教訓を引き出し、それを未来に向けて有効な戦略へと転換する、ということにほかならない。断片的に蓄積されていく体験のなかから、未来において有効であるはずの戦略という、論理の筋 道を引き出す。手帳という記憶装置を、頭という演算装置に、視線というケーブルでつなぐ。手帳を開くと電源がオンになる。ケーブルを経由して入ってくるさまざまな記憶を解析しならべ替え、そのすべてをつらぬく抽出経路を作ると、そこに論理が流れる。

 ちょっと長いけど、ボールペンについて:ポールペンが僕の身辺になかなか居つかない。ボールペンは難しい、と僕は思う。難しいとは、いいのがない、という意味だ。そしていいボールペンとは、ボールペンでなにかを書こうとしているときの僕のすべてを、僕の指先で一手に引き受け、紙の上に固定される文字へといっさいなんの支障もなく転換してくれることをとおして、ポールペンらしさを快感として体験させてくれつつ、それと同時に、鉛筆と万年筆との中間のどこかに位置する確定されたところを持たない仮のものとしての性格を充分に発揮してくれる、そんなボールペンのことだ。
 僕からのこんな微妙な要求をすべて満たしてくれるボールペンは、どこにもないと思ったほうが正しいのではないか。ボールペンとして作られた、その作られかたが僕の要求と合致しないから、僕にとってのいいボールペンはどこにもないのだ。そうであるからには僕にぴったりくるボールペンは自分で作るほかない、という解決への道が浮かび上がってくる。
 一本のボールペンは、大きくふたつの部分に分かれる。インクをボールで紙へと移していくための芯と、それ以外のすべての部分だ。芯を自作するのは不可能だし、芯にはたいへん良く出来たものが何種類か存在する。その芯だけを指先に持って書いているときには快適なのに、芯をポディに入れてボールペンとして完成されたかたちで使うと、ほとんどのボールペンが、少なくともこの僕にとっては、決定的にいまひとつなのだ。いまひとつのものばかりだから、どれもみな身辺に居つかず、いつのまにかどこかへと消えている。芯は満足のいくものがいくつもあるなら、その芯を収めるボディを自分で作ればいい。芯に合わせて金属からボディを削り出すのは、心得さえあれば難しいことではない。そこまでしなくても、流用というかなり確実な方法がある。たとえばローラーボール用のボディに、気にいっているボールペン用の芯を入れて使う、といった方法だ。
 最近になってようやく思いついた妙案は、鉛筆の芯ホルダーにボールペンの芯を入れる、というアイデイアだ。クロスのポールペン芯がファイバー・カステルの三・四ミリ芯ホルダーにぴったりと収まる。使用感はたいへん良好だ。もっと太い鉛筆芯のホルダーには、パーカーのボールペン芯が入る。芯をしっかりとくわえさせるためには多少の工作が必要だが、まるで最初からこう作られたものであるかのような、機能的で美しい状態に完成する。気にいっているボールペン芯を、良く出来た借り物のポディに収めると、僕好みのボールペンがそこに完成する。
 ボールペンに関する勝利の方程式を、僕はこんなふうにして手に入れた。金属製だったりプラスティツクだったり、三本とも異なるホルダーだが、どれもが鉛筆の六角をボディに残していて、指先に持ったときこの六角が快感だし、ぜんたいの重さとそのバランスは、最初からポールペンとして作られたものでは一度も体験したことのない、たいそう好ましいものだ。

 どんどんいこう。消しゴムについて:いったんは紙の上に固定されたアイディアや発想を、消しゴムで消し去って修正をほどこす作業をとおして、紙の上のそのアイディアや発想が、より高度なものへと高められていくかもしれないプロセス、というものは確実に存在する。このプロセスのなかに、消し去る、という機能を体現するものとして、一個の消しゴムが存在する。ひとつのアイディアや発想が、修正されることによってより高度な次元へと到達する可能性ないしは予感。消しゴムとはこういうものなのだ。じつに尊い存在ではないか。

 最後にステイプラー、いわゆるホッチキスについて:なぜこんなステイプラーを使って、数枚の紙を人は綴じ合わせなくてはいけないのか。その答えは単純だ。紙の上に文字で固定されたなんらかの情報が、一枚の紙の内部では収まりきらないからだ。二枚、三枚とそれは連続していく。何枚もの紙に書かれあるいは印刷された、さまざまな情報。これが文明国を動かしている。ステイプラーは文明そのものであり、その姿かたちと機能には、文明の主である人間の業が宿っている。それにしては、とステイプラーを使うたびに、僕は思う。二、三枚の紙を綴じ合わせる目的のために、なぜこんな方法しかないのか。ぺーパー・クリップのようなものではさむまではいいとして、そこから先に革命は起きないのだろうか。ステイプラーのレヴァーを握り込むと、紙を貫通する接着剤が直径一センチほどの丸いエリアに出てきて、次の瞬間には凝固して紙どうしを接着させている、というような革命は。接着の強度には、しっかり接着するのと、軽く仮どめする程度に接着するのと、ふたとおりあるといい。こんなステイプラーが生まれたとしても、接着させて綴じ合わせた部分だけは、ほんの少しにせよ厚みが増し、したがって綴じ合わせたものを何通も重ねると、その部分だけが厚くふくれるのは、針金のステイプラーの場合とおなじだろう。ふくらみを可能なかぎり抑えるため、綴じる針をきっちり四角に曲げる工夫のほどこされたステイプラーがある。ステイプラーじたいが到達している文明度は、いまのところこのあたりまでであるようだ。

 こんな調子で、エッセイが綴られていくのだが、ひとつひとつに作者の愛着を感じる。しかし、一つだけ疑問が。撮影の為なのだろう、大量に買い集めた文房具たち。ノートなど、積み重ねて箱のように見せかける為、数十冊を購入している。果たして、これらの文房具が使われる日が来るのだろうか? 文房具好きの私に言わせると、文房具は使ってなんぼである。

>2003.08.25.MON


△0151 『空飛ぶ馬』 >北村薫/創元社推理文庫/1998.02.15

 非常に評価の難しい作品である。作品のクオリティは非常に高く、事件の起きないミステリーとしては、秀逸であろう。しかし、ミステリー好きとしては、事件が起きないのはなんとも寂しい。意味もなく人を殺めるようなミステリーは嫌いだが、まったく事件性がないのもドキドキしない。しかも、「ミステリーの傑作」という先入観で読み進めたため、期待はずれというよりも、「拍子抜け」してしまった。というわけで、評価は△。こればっかりは好みの問題なので、ファンの方ごめんなさい。

 さて、本書には、加納朋子の『ななつのこ』との共通点が沢山あるように感じた。どちらも甲乙付けがたい作品だが、どちらが先とか、どちらが真似たということではなく、ギスギスした物語が多い中、ほのぼのとした作品が作りたいという筆者の思いから、自然発生したのではないかと感じている。多くの方が感じておられるとは思うが、一応その共通点を纏めてみると、(1)探偵役が主人公の話を聞いて推理を行う、いわゆるロッキングチェア・タイプのストーリー展開。『空飛ぶ馬』では噺家の春桜亭円紫、『ななつのこ』では、作中作の作家・佐伯綾乃がその役割を果たしている。(2)事件が起きない。事件といえば事件なのだが、あくまでも日常の延長であり、テレビのニュースになるような事件は一切出てこない。(3)主人公が女性であり、物語を通じて成長していく。特に、探偵役から大きな影響を受けて、進歩している。両作者とも、この主人公の成長に一番力点を置いているのではないだろうか。「日常生活のさまざまな疑問をもっと掘り下げてみることによって、今まで見えなかったものが見えてきますよ。それは貴方にとってかけがえのないものかもしれませんよ」という作者のつぶやきが聞こえてきそうである。

>2003.08.23.SAT

苗村屋読書日記 [31]

     



































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