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![]() △0295 『パンク侍、斬られて候』 町田康 △0294 『さまよえる脳髄』 逢坂剛 ○0293 『そして夜は甦る』 原ォ △0292 『迷路館の殺人』 綾辻行人 △0291 『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ △0295 『パンク侍、斬られて候』 >町田康/マガジンハウス/2004.07.03 以前、町田康の『くっすん大黒』を読んだ時には、少し付いていけない行けない感じがしたのだが、それに比べると比較的とっつきやすい作品であった。とはいうものの、全体を通してスラップスティックなストーリーが展開し、荒唐無稽というか破茶滅茶というか・・・昔の筒井康隆の様な勢いを感じた作品でもあった。 舞台は江戸時代だろうか。侍が官僚化した時代に「腹ふり党」なる宗教団体が跋扈する中、その対応に追われる官僚たちを面白おかしく描いている。時代小説にもかかわらず、カタカナ言葉が横行し、何やらタイムスリップしたような気にもさせられる。「拙者」と「僕」という一人称を組み合わせるだけで、こんなにもシュールな世界が描けるのかと新鮮な驚きを感じた。 また、侍達の立ち回りが、現代のサラリーマンのようで面白い。曲がったことが大嫌いな殿や、おべんちゃらの通じない内藤など、今の世の中にも居そうな、というよりも今の世の中に居て困るような人物をカリカチュアライズしているのだろう。彼らの会話を聞いていると、非常に論理的に感じるし、「報告は簡潔に」とのたまう内藤など、官僚的サラリーマンの鑑ですらある。 一方で腹ふり党の党首である茶山の言葉は多分に教祖的である。何を言っているかわからない中に言葉のパワーを感じる。このあたりは、パンクロッカーとして活躍してきた筆者独特の感性なのだろう。また、腹ふり党には「パンクロック」との共通点も感じる。「やりたいことをやれ」と穴の開いたジーンズをはいたり、安全ピンを鼻の穴に突き刺したりする自虐的ファッションは、腹ふり党員のファンションにも通ずるものを感じた。パンクロックの歌詞には「NO FUTURE:未来は無い」「ANARCHY:無政府状態」「NEVER MIND:気にするな」といった言葉が頻出するが、これらはまさに腹ふり党のテーマであり、本書のテーマでもある。 非常にパワーを感じる作品であったが、中盤少しだれてしまうのが難点。茶山のセリフは面白いのだが、あまり長々と続くと疲れてしまう。また、猿がしゃべりだしたり、超能力で人を爆殺したりと何でもありの世界になってしまったのも残念。「何でもあり」の物語なのかもしれないが、ある程度の制約がないと逆に興醒めとなってしまう。もうひとガンバリして欲しい作家である。
△0294 『さまよえる脳髄』 >逢坂剛/新潮文庫/2004.06.30 背表紙あらすじ:ゲームの最中、突然マスコットガールに襲いかかったプロ野球選手・追分知之。元歌手を名乗り、制服姿の女性を次々と狙う連続殺人犯。そして大脳に障害を負った刑事・海藤兼作。精神科医・南川藍子は、深層心理や大脳に傷を持つ3人の男と関わり始める。さらに、藍子を付け狙う謎の人物の影が見え隠れして・・・。最先端の精神医学の研究成果を大胆に取り入れた、長編異色ミステリー。 10年近く前に書かれたテーマとしては新鮮で面白いのではないだろうか。脳をつなぐ脳梁という部分が分裂してしまい、人格が二つできるという発想。いわゆる二重人格とは異なり、物理的な要素から発生する人格が、作中に見え隠れして面白い。 殺人犯も読者をうまくミスリードしている。さらに、2人の狂人から追われる藍子の心理描写が、緊迫感をうまく出していると思う。一方で、☆虹の名前を持つ女性を幼少期のトラウマから殺しにいくという設定には無理を感じるし、最終的には藍子まで脳梁梗塞というのはやり過ぎだとかんじてしまった。☆ 脳医学の発展は目覚しく、最近は小説の分野でも「脳」をテーマにしたものが多く見られるように思う。そういった意味では、「一昔前の作品」といった印象は否めない。あくまでも「当時としては」面白いという評価。しかし、目の付け所は悪くなく、書き方によってはもっと面白くなりそうなテーマだけに、惜しいとも感じた。
○0293 『そして夜は甦る』 >原ォ/ハヤカワ文庫/2004.06.26 背表紙あらすじ:西新宿の高層ビル街のはずれに事務初を構える私立探偵沢崎の許へ海部と名乗る男が訪れた。男はルポライターの佐伯が先週ここへ来たかどうかを知りたがり、二十万入った封筒を沢崎に預けて立ち去った・・・。かくして沢崎は行方不明となった佐伯の調査に乗り出し、事件はやがて東京都知事狙撃事件の全貌と繋がっていく・・・。いきのいいセリフと緊密なプロット。チャンドラーに捧げられた記念すべき長篇デビュー作! 原ォの「ォ」は「寮」ではない。ウ冠はいらないのである。以前とあるサイトでそのことを知ったのだが、「ォ」という漢字は常用漢字でないため、パソコンでは表示できないと書いてあったのを記憶している。そのサイトの管理人はやむを得ず「原りょう」と表示していた。正確に書くならひらがな表示もやむを得ないのだろうが、なんとなくしっくり来ないので、私としては間違いを承知で「原寮」と表示していた。ところが、である。引越しを機に古いノートパソコンを私専用として、ネット環境も整えて使用しているのだが、「りょう」と入力して変換するとちゃんと「ォ」と出るではないか。パソコンの機種依存文字なのだろうか? 不思議に思いながらも「このミス」などの作者名を修正し、今回「原寮」は「原ォ」に生まれ変わったのである。もし文字化けして「原?」となっていたら、そこは「原りょう」と読み替えて欲しい。 さて、原ォの作品というと『私が殺した少女』が既読であり、プロットのうまい作家だなという印象があった。今回、デビュー作である本書を読んで見て、その思いを一層強くすると共に、セリフや文章も小洒落ていてなかなかいいではないかと思ったのである。例えば「女の直感に比べたら、探偵の判断など風邪をひいた猟犬の鼻に等しかった」とか、「新宿署の玄関に出ると、予報に反して小雨が振り出していた。もっとも、あれはすでに昨日の予報だった」とか、「彼の視線は使用期限切れの消火器でも見るように、私の顔の表面を通りすぎていった」とか。流れるような文章という訳ではなく、一歩一歩踏み固めるような文体が洗練された中に重厚さも醸し出している。 プロットの方も凝り過ぎといっていいほどで、その複雑さゆえに読み進めづらい個所もあったのだが、ラストへ収斂していく様を考えると許せる範囲である。むしろ、ささいなセリフの裏に、伏線が隠されていたり、駆け引きが折り込まれていたりして、一瞬たりとも気の抜けない作品であった。私にしては珍しく誉め言葉のオンパレードなのだが、『私が殺した少女』の方がもっと面白かったのではないかという懸念もあり、評価はあえて○とした。 ところで本作品には石原都知事をイメージしたと思われる向坂という都知事が登場する。大学在学中に作家デビューを果たしたと言う経歴や、弟が有名映画俳優という構成など、まさに石原氏にそっくりの知事なのだが、よくよく考えて見ると本書は1988年の作品である。そのころ石原氏は衆議院議員として政治生活を送っていたが、都知事に就任したのは1999年のこと。以前にも都知事に就任していて再選だったかと思い確認してみたが、1999年の就任が初めてである。(ちなみに2003年に再選) これは作家・原ォとしての卓越した予見だったのであろうか? 結末からすると向坂都知事はあまりいい役ではなかったので気を遣ったのかもしれないが、筆者が後記にて、本作品がフィクションであることを妙に強調しているのが逆に気になってしまうのだが・・・。
△0292 『迷路館の殺人』 >綾辻行人/講談社文庫/2004.06.22 背表紙あらすじ:奇怪な迷路の館に集合した四人の作家が、館を舞台にした推理小説の競作を始めたとたん、惨劇が現実に起きた! 完全な密室と化した地下の館で発生する連続殺人の不可解さと恐怖。逆転また逆転のスリルを味わった末に読者が到達する驚愕の結末は? 気鋭が異色の構成で挑む野心的な長編本格ミステリー あらすじの通り「本格ミステリ」である。「本格」の場合は、なんとなく「ミステリー」ではなく「ミステリ」と書きたくなってしまうのだが気のせいだろうか。「ミステリー」というと「このミス」に代表される様に、今では広義に解釈されている様に思う。いわゆる「謎解き」に特化したものには「ミステリ」という語感がよく似合う。 さて、先日読んだ『密閉教室』に続いての「本格ミステリ」だが、本書を読んでいて「本格」に対する考えが少し変わったような気がする。本書の舞台は地下が迷路の館で、老作家の全財産を懸けた競作が行われるという、ありえないシチュエーション。いままでは現実味がないと一蹴していたのだが、そもそもSFなど、非現実的なシチュエーションを楽しんできた私がなぜこんなに「本格」に対して違和感を覚えるのか? 謎解きの舞台に現実味を求めていたからではないだろうか。本格とは非現実の世界で、「極論すれば漫画やSFと同じようなもの」と割り切ってしまえば案外楽しめるのではないかと思ったのである。実は作者自身、作中で老作家や評論家をして、「ミステリ」は矛盾を抱えた存在だと云わしめている。作者が割り切ってくれると、読者も割り切りやすいのである。 作中作というアイデアは面白く、表紙やあとがきまで作中に作っており、文庫本にしてはなかなか凝った作りになっている。特に気に入ったのが、奥付に「この頁は乱丁ではありません」という但し書きが入っている部分。通常なら「落丁本・乱丁本はお取替え致します」と書くところである。確かに作品の途中でいきなり奥付が入っていればびっくりする読者もいるだろう。こういった細かい部分へのこだわりというのは、いいものである。
△0291 『ふたりの証拠』 >アゴタ・クリストフ(訳:堀茂樹)/ハヤカワノベルス/1997.07.09・2004.06.18 『悪童日記』の第二部である。前作のネタバレになってしまうが、☆ラストシーンで離れ離れになった兄弟の、町に残った方の物語である。☆ 前作と変わって、本書ではそれぞれが固有名詞を持っている。ちなみに、主人公は「リュカス:LUCAS」で、双子の兄弟は「クラウス:CLAUS」である。前作のラストシーンから物語は始まるのだが、本書では17歳に成長したリュカスが、父親と娘の間にできてしまった足の不自由な子供を養育したり、戦争で夫をなくしてしまった女性の愛人になったりと、忙しい毎日を送っている。 これらの日々の出来事を、前作と同じように帳面に綴っているのだが、これはいずれクラウスに読ませるためのものであり、リュカスという人間が存在した証拠なのである。今回の邦題は訳者の意訳のようだが、作品の本質をついたいい題名だと思う。 一方、物語としては前作ほどのインパクトがない。登場人物が固有名詞を持ち、三人称で語られるようになっただけで寓話性がなくなってしまい、「普通のお話」になってしまったのが、非常に残念である。ラストの驚愕の事実やそれを匂わせる冒頭の伏線など、作者の技術的な力量は上がったのかもしれないが、『悪童日記』で感じた「不気味さ+爽快感」は感じられなかった。 さらにラストシーン。以前読んだ内容を完全に忘れており、最後はページをめくる手が止められなくなったのだが、どうにも納得がいかなかった。レベルの低い叙述ミステリーを読んだあとのような後味の悪さを感じてしまったのである。それでいて、このラストでなければ「普通のお話」で終わってしまっていただろうし、評価のしづらい終わり方であった。
苗村屋読書日記 [59]
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